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Chikuraの横顔

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 Chikura 近影

Current status of Chikura

縁側で、親友のザリガニ君と共に終日スキンシップで親交を温めるの図。 

・・chikuraと言うのは幼年期に兄から付けられたあだ名、加工食品のチクワを発音できず、ちくら、ちくら、と・・(T_T)

I make daily friendships with my best friend crayfish.
"Chikura" is a nickname given by my brother. Because I couldn't pronounce Chikuwa, a processed food, I called it Chikura Chikura... 

あのねぇ、わたし困るんですよ・・私がどうやら絵を描いている輩だと知れると、多くの人はバイアスの架かった一般的なイメージから、チョット風変わりで偏屈な人間の筈だと、勝手に思い込まれてしまうんです。

でもね、私、自分で言うのもなんですが、ごくごく普通に、普通なんです。

 

日頃、とくべつ絵画に関心や機会の薄い方にとっては、”絵かき”と呼ばれるような不審人物は、良くても演出された定番、ベレー帽姿にパイプを燻らす気取った外見で優雅にお絵描きをする姿。あるいは、伝記にも散見する様なエキセントリックで、奇人変人と呼ばれることを由とする、演劇的世捨て人タイプが思い浮かぶようです。

私は煩悩を掃き捨て、人里離れた山に籠もって下界からの接触を断ち、仙人の様に高邁な思想と理念を持って日々修行僧のように創作活動に没頭する・・な~ぁんて人格にも該当してませんからねぇ。。。

そもそも、単に絵をお気楽に描いて居ると言うだけので、巷では分別もなく「芸術家」と言う不可解な称号で括り、特別視する風潮には子供の頃から違和感を懐いていました。 時たま世間で見掛ける芸術家風を衒う輩には、今でも虫唾が走る程の嫌悪を感じてしまいます。

私は、予防接種こそ打ってはいませんが、いきなり通りすがりの他人様を大声で怒鳴りつけたり噛み付いたりも未だしておりません。自分の耳を削ぎ落としたりも致しません。 机の前でポーズを執り苦虫を噛み潰した苦悶の表情を拵え、時折もの憂げに天井を見上げて頭を搔きむしったり、夜中に奇声を張り上げたりもしていません。・・・そもそも、残り少ない私の髪の毛を、誰が粗末に扱いますか! 

でも、だからと言って、街中を本来のお気楽モード全開でヘラヘラと徘徊行動を繰り返してもいませんよ。警察の不審尋問に引っ掛かりますからね。・・・(でも、一度だけ東京駅構内で経験したなぁ・・4.5人の私服警官に取り囲まれてバンザイさせられて・・直ぐに解放されたけど、何だったんでしょうかねえ。。。(>_<)) 

 

わたしは、健気にも社会生活の規範に忖度し、ごく普通を取り繕いながら、可も不可も無い善良な小市民を気取って日々の生活を過ごしています。

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白砂 泉 / 略歴

 

1947  大阪府堺市生まれ

1967  専修大学法学部中退

    自由美術展・初入選。1980迄春期・秋期展とも毎年出品。

1968  自由美術展・佳作作家に推挙される

    東京芸術学園(画塾-私塾)油絵専攻科卒

1969  トーキョーアート展・結成に参加・1973迄毎年出品

    自由美術展・佳作作家に推挙される

1973  個展(銀座・フジヰ画廊)

1974  曙新人展に出品。最優秀賞受賞 (立川・曙画廊)

    美術文化展に出品・プールブー賞受賞

    マルシェ絵画展に出品・最優秀賞受賞(銀座・G.マルシェ)

    自由美術協会・会員に推挙される

1975  個展(立川・曙画廊)

1976  東京展・参加出品(東京都美術館)

    自由美術協会員による下絵展(吉祥寺・画廊駱駝館)

1977  個展(吉祥寺・画廊駱駝館)

1981  自由美術協会を退会する

1983  草人展結成に参加(銀座・地球堂ギャラリー)

1984  アジアの中の日本展に参加する(パリ・エスパース.ジャポン)

1985  個展(銀座・ギャラリー三真堂)      

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      | ~ 活動休止 ~(T_T)

 

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2010  グループ展に参加(リッチモンド・ルーファンス.リン・G)

    東京芸術学園OB展「2016まで隔年参加する」(国分寺・司画廊)

 

 

                              現在=無所属・東京在住

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Izumi  Shirasuna  / Biography

1947 -   Born in Sakai, Osaka

1967 -   Senshu University. Faculty of Law-dropping out

Jiyu-Bijutsu Exhibition, exhibited every year from 1967 to 1980 (Tokyo Metropolitan Museum of Art)

1968 -   Winner of the Masterpiece Artist Award at the Jiyu-Bijutsu Exhibition,(Tokyo Metropolitan Museum of Art)

  graduated in oil painting major at Tokyo Art School (private art school)

1969 -   Tokyo Art Exhibition, exhibited every year1964-1973 (Chikyudo.G) (Tsubaki-kindai.G,) (Mudo.G,)

Won the Honorable Artist Award at the Jiyu-Bijutsu Exhibition, (Tokyo Metropolitan Museum of Art)

1973 -   Solo exhibition (Ginza, Fujii Gallery)

1974 -  Best prize at the Akebono Newcomer Award Exhibition. (Tachikawa, Akebono Art Gallery)

Won the Pool Boo Award at the Bjutu-Bunka  Exhibition. (Tokyo Metropolitan Art)

Won the highest award at the Marche Art Exhibition. (Ginza, G. Marche)

Accepted as an official member of the Jiyu-Bijutsu Exhibition, Association.

1975 -   Solo exhibition. (Tachikawa, Akebono Art Gallery)

Participated in 1976-Tokyo-Ten Exhibition (Tokyo Metropolitan Museum of Art)

Participated in a sketch exhibition by members of the Jiyu-Bijutsu Art Association. (Kichijoji, Art Gallery Rakuda-Kan)

1977 -   Solo exhibition. (Kichijoji, Art Gallery Rakuda-Kan)


1981 -   Resigned from being a member of the Jiyu-Bijutsu Exhibition, Association

1983 -   Exhibited at Sozhinkai Exhibition (Ginza, Chikyudo)
gallery)

1984 -  Exhibited at the Japanese Art Exhibition in Asia (Paris, Espace-Japon)

1985 -   Solo exhibition (Ginza, Sanshin-Do-Gallery)

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|               ... Having a family and more children, I dared to work for some companies unrelated to painting to stabilize my life. Sales staff, printing workers, security guards, hotel staff, etc.
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2010 -   Japan Exhibition (Richmond.RufenceLee-G,)

Participated in Tokyo Art School O, B, members exhibition.
Exhibit every 2 years from 2010 to 2016
[Kokubunji, Tsukasa G,]

 

 


Currently, I do not belong to any art organization.
I live in Tokyo.

 

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              白砂泉と絵画と歩み

 

私が小学低学年時代、担任からクラス全員への質問で将来何になりたいかと問われた。一人一人が順番に、社長、プロ野球選手、医者、バレリーナ、スチュワーデス、映画俳優、と好き勝手なことを即答していた。順番が回ってきた私は咄嗟にタクシーの運転手!と表明していた。。なのに、未だ免許も持っていない。

私の絵との関わりは幼少期からだが周囲から褒められたり囃されるのが苦手だった。 それでも小学一年生の時、教室で最初に描いた絵が廊下に貼り出された。枯れ枝から木の葉が一二枚舞い落ちるクレヨン画だった。・・こんなのが大人の先生には喜んで貰えるのかと、次の機会には沢山の葉っぱを頑張って散らせてサービスしたが軽く無視されてしまったのを今でも憶えている。。。。

私は歳の離れた四人兄姉の末っ子だった。それ故、幼年期から殊更周囲から可愛がっては貰えた様だが、当然、兄姉間での力関係に格段の差があり、日頃から年上の人には敬意を保って接するよう仕込まれていた。 私自身も庇護されている立場を理解し、わがままは言っても控え目な態度と行動で対処する様になった。これは私の両親の躾の一部でもあった。 しかし、洗脳された訳では無いので、表面上は大人しい良い子を振る舞っては居ても自己矛盾は拡がり続けていた。

大人になってからも、・・ホントになったのか?どうかは、さておき・・・自分の迂闊な言動が誤解を生み、其の齟齬による私の評価を貶められることも屡々あった。しかし、その相手からの反応は反って快感ですらあり、そのまま弁明もせず放置しておく事が度々あった。むしろ其の悪評の方が、演じ上げた結果の架空評価に抗えて長年の呪縛から解き放たれた気分に浸れ、気持ちは微妙に安らんだ。

取り敢えず流れに沿って大学に入学したのを機に、親にずっと遠慮していた油絵を独学ながら始めた。画家で大学教授でもあった叔父が「日展」に出品していたので、子供の頃から毎年誰かに連れられて観に行くのが恒例だった。 昔は情報量が少なく、其れ以外の美術団体の認識はなく、観る機会もなかった。 当時はモナリザ展や、17世紀ヨーロッパ名画展に感銘を受けたり、画集でしか識らないがキリコやダリの作品に強く惹かれていた。 

 

今思えば非常識にも程があるが、油絵を描き始めて間もない小品、3.4作品目、しかも6号8号の小さ過ぎる作品を都美術館で毎秋開催される某美術展の公募にコッソリ応募した。 勿論、無知な私は其の時点で観たことも聞いたこともない団体展だったが委細気にせず、選考料を払い、作品を搬入し、見事に落選した!

しかし、その頃の私は予想だにしなかった落選の通知に大きなショックを受け、両親に懇願して大学を中退の承諾を得て、急遽美術雑誌から沢山集めた入学案内要項から、営利目的ではなさそうな最も良心的に思えた画塾に願書を提出した。

そして青春時代に学び通う事が出耒たのは、今は存在しないが(東京芸術学園)という名称の小さな画塾だった。 千葉周作・赤銅鈴の助で知られた北辰一刀流『玄武館』の五代目館長で洋画家の故・小西重治郎氏が其の道場に併設した画塾だった。 そこでは美術評論家や各美術団体に所属する現役の画家達の指導を受ける事が出来た。車座になっての質疑応答がメインの授業で、生徒が持ち込んだ作品批評から絵画の見方を学んだが、技術的な規範を強要指導される事は一切無かった。自由な画塾だった。

卒業後は園長からの要請に従いそのまま一定期間、助手として勤めた。同時に児童絵画の指導も任されたが、その教え子が上野の児童美術展で最優秀賞に選出されたのがとても嬉しい想い出として遺っている。

今では、そうは考えてはいないが、当時一般的に国内では主流だった印象派の作品等は、未だにこんな古くさくて凡庸で綺麗なだけの絵を?っと、全く興味の対象外だった。 ・・・時代は古くても独自の世界を叩き出すキリコ、ダリ、ベーコン、モンス・デシデリオ、ウンダーリッヒ、フリードリッヒ、ベルメール、ベックリン、マグリット、ジョージ・シーガール、日本では池田満寿夫、木村忠太、あたりに関心は向いていた。

​情報収集力の貧しかった当時、日本において画家としてスタートを切る最初の関門は、都心の美術館で開催される、主要美術団体展の公募に取り敢えずは入選する事と漠然と理解していた。初入選者名は大手新聞の地方欄にも掲載されていたが、そんなものかと思いながらも先輩が入選した事を知り、各会にはそれぞれ特徴があることも理解しないまま応募したのが、自由美術協会との出会いだった。 当時、「自由美術展」は反権力、反体制を標榜する反官色の強い美術団体で毎年会期中にはその年のテーマとするスローガンを掲げていた。

自由美術には13年間所属していたが、毎年秋になると決まって大作を描く行為のマンネリズムと、イデオロギーの圧力を感じるスローガンに窮屈さを感じていた。会員として会への積極参画には興味が無く総会にも出席せず、出品を控える事でフェイドアウトするように退会した。 ​個展も数回開催したが、グループ展以外は全て貴方任せの企画展か、第三者の推薦によるものばかりで、幼少期に染みこんだ性はそのままで自らが能動的に開催した個展はまだ一度も無い。

絵描きは喰えないのは当たり前と、よく言われていた。其れは覚悟の上でも、いわゆる売り絵 (一般受けの良いパターン化された綺麗な絵)・(そうしている人を非難するつもりは全くない) で生活を支えようとは考えなかった。学生時代、デート代を稼ぐため運送会社のトラック助手や、豆腐屋の早朝バイトで凌いだが、切羽詰まり、2.3点の絵を予約もとらず飛び込みで銀座の画廊に持ち込んだ。幸い買い取って貰えその後個展までの運びにはなったが、内心は決して居心地の良い状態ではなかった。

結婚後、経済的な不安解消が必要となり、27才にして初めて普通に社会人として会社勤めを始めた。日本橋を拠点とするチーク材専門の高級食器・文具のメーカーで、各デパート相手の営業職に赴いた。その間、他の画商や、出版物の表紙やカット等の仕事も受けては居たが、5年続けた営業職は案の定、肌に合わず円満に退社させて貰った。退職金で夫婦でアメリカ放浪の後、再び就いた仕事は都内の零細出版印刷会社だった。そこではデザイン部を勧められたが、希望通りに作業着姿で油まみれの印刷工見習となった。

馴れない仕事で半年で10キロ程痩せたが、社内の人間関係は何処も極めて良好だった。子供も増えたこの頃は断筆状態で日々を消耗していた。23年間務めたその会社が倒産。その後ホテルマンや市役所の警備員にも手を出したが、子どもも大きくなった現在、再び絵を描きながら爪に火を点す生活で暮らしている。

​とにかく面倒臭がり屋の私だが、何を遣れば良いのかサッパリ判らないまま好奇心だけで始めたのがFacebook。家に居ながら知り合えた他業種業界の方々や、海外の人々とも知り合えて新たな刺激を授かり時代の変化に感謝しています♪

 『 解す糸の彼方へ 』   

       ヨシダ.ヨシエ (美術評論家)


                    
『みっともない人体』を著したバーナード.ルドフスキーのように、人間が飽くことなく考案した衣装の側から肉体の関係を考察しなくとも、均整のとれた裸体は、やはりうつくしいものだとおもう。 白砂泉が描くとってもプロポーションのいい女たちは、リサ.ライオンのように逞しい。リサは篠山紀信のカメラや横尾忠則の絵筆の前で、きらめくような存在を誇示したが、白砂泉の画面に登場する女は、筋肉の軌跡を空間に残像のようにのこして、油彩やアクリルによっておおわれたキャンバスのなかに消えてゆきそうである。特に近作に顕著な、肉体をなぞる線は、人体から青白い筋のように表出されてきて、しぐさや筋肉の動きを記号化し、存在を向こうへ押しやっているようにみえる。 閃光のなかで、一瞬とらえたセンシュアルなアフター.イメージ、または、不倫の夢のように。存在そのもが、風景、あるいは夕闇のような空間と同質化したがっているのだ。 

 実態とは、人間の存在とは、果たして何かと、白砂泉はせつなく問うているように、わたしにはみえる。  白砂泉という、このすぐれた描写力を持つ青年に遭ったのは、おそらく十七、八年も前の事だろう。わたしが時折通っては、ウイスキーを舐め々々、無頼なレクチュアをつづけていた、ちいさな研究所の学生だった。その後彼は、ルネ.マグリットの強い影響下に、トロンプ.ルイュふうの作品を描き、いまは亡き石子順造がとりあげたのを覚えている。 1971年の国立近代美術館での、おおがかりなルネ.マグリット展は、白砂泉に転機を与えた。 『良識』と題された、テーブルの上に何も描かれていないキャンバスの額縁が置かれてあり、その上に洋梨を盛った器が描かれている絵をみたとき、その描く姿勢は、ひたすら視覚の位置をずらすことのみに集中され、存在そのものへの問いが欠落しているようにおもわれた。 これなら立体でも可能だ。 白砂泉は、トロンプ.ルイュを通して、
存在の曖昧性の方に関心があったのである。 存在が美しい姿体をとればとるほどに、逞しく実在を誇示すればするほど、白砂泉は不在との距離のなかに埋没してゆくあの芸術にとって不可欠の曖昧の空間の幅を厚くしてゆくのである。 

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    "Beyond the thread to unravel"

            Yoshida. Yoshie (art critic)



Like Bernard Ludowski, who wrote "The Unsightly Human Body," a well-proportioned nude is still beautiful, even if you don't consider the physical relationship from the side of the costume that humans have devised without getting tired of it. The women with very good proportions drawn by Lisa are as strong as a lion. Lisa showed off her glittering presence in front of Kishin Shinoyama's camera and Tadanori Yokoo's painting brush, but the woman who appears on the screen of Izumi Shirasuna. Is likely to leave the trajectory of the muscle in the space like an afterimage and disappear into the canvas covered with oil and acrylic. Especially, the line tracing the body, which is remarkable in recent works, is like a pale streak from the human body. It seems that the gestures and movements of the muscles are symbolized and pushed away from the existence. In the flash of light, a sensual afterimage that was captured for a moment. Like an image or an affair dream. Existence itself wants to be homogenized with a landscape or a space like dusk.

 

It seems to me that the reality is that Izumi Shirasuna is asking what the existence of human beings is. It was probably 17 or 8 years that I met this young man with excellent descriptive power called Izumi Shirasuna. I think it was before. I was a student at a small laboratory who occasionally licked whiskey and continued to make unreliable lectures. After that, he was under the strong influence of Rene Magritt. .. I remember drawing the work of Ruiyu and picking it up by the late Junzo Ishiko. A big Rene at the National Museum of Modern Art in 1971. The Magritte exhibition gave a turning point to Shirasuna Izumi. There was a blank canvas frame on the table entitled "Good Sense", and a pear-filled vessel was drawn on it. When I saw the picture I was drawing, the posture I drew was concentrated only on shifting the visual position, and it seemed that there was no question about the existence itself. This is possible even in 3D. Izumi Shirasuna Through Trompe Louise
I was more interested in the ambiguity of existence. The more beautiful the existence is, the stronger and more it shows off its existence, the more the white sand spring is buried in the distance from the absence. It thickens the width of the ambiguous space that is indispensable for art.

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